第27回|ファッションモデルがかっこいいのは「無表情」だから
関西大学文学部英米文化専修に勤務する美学者。『The aesthetic in Kant』(Bloomsbury)、『Beauty』(Manchester UP)、『Sublimity』(Routledge)などの著作がある。今回紹介したのは、「Cool as an Aesthetic Quality」という論文(Contemporary Aesthetics掲載)。関連文献としては、文化史を扱った『クール・ルールズ』(研究社)を挙げておきたい。
ファッション誌をめくると、曖昧で無表情のモデルたちが、高級なバッグや服を身にまとっている。私たちはそれを見て「かっこいい」と思い、そのアイテムが欲しいと感じる。だが、何かをクールだと思うとき私たちは何に惹かれているのだろうか。
美学者のジェイムズ・カーワンは、クールの条件を、重圧への無関心性や自律性に求めている。つまり、他人が困難に感じる事柄に対して、努力の形跡を見せずに造作なくやってのけることが「かっこよさ」のコアにあるのだ。あからさまな欲望や意図が見えず、エフォートレスで肩の力が抜けた優雅さを意味する、イタリア語の「スプレッツァトゥーラ」という言葉に近いものだと彼は指摘する。
ファッション誌に載っている「人間」ではなく「アイテム」をかっこいいと思うことがあるだろう。だが、人間でない存在に、無関心性や自律性、リラックスした洗練や抜け感を見出すことはできないはずだ。何かのアイテムをクールだと思う感覚は、人間に見出したクールさの連想と類推によって生じると考えるべきではないか。たとえば、19世紀ダンディズムの象徴であるボー・ブランメルの服装はかっこいいとされた。これは、ドレスコードへの無関心を体現したミニマルな衣服選びや着こなしが、つまり彼自身の自律的な態度が、その衣服をもクールに見せる連想と類推を生じさせたのである。
「この服かっこいいな」という感覚は、適切な対象(人間の態度)に抱いた感情を、偶然的なもの(物質)に置き換えるという錯誤によって生じている。つまり、無表情なモデルの広告を見て「そのバッグかっこいい、欲しいな」と思うとき、実はバッグに憧れているのではなく、社会規範や評判を気にしなさそうな、モデルの無頓着で超然とした態度に憧れているのだ。
しかもこのとき、クールな人物を私たちの延長に想像している節がある。つまり、想像の中で「自分が大切にしていること(what we care about)」を気にかけないクールな存在として捉えているのだ。その超然とした姿勢が現実に存在しないことから、「想像上の傷つかなさ(imagined in-vulnerability)」とも表現される。
ファッション文化で行われる一見奇妙な慣習の合理性を理解させてくれる点で、この議論は興味深い。ファッション誌やランウェイに登場するモデルたちが、いつも一様に曖昧な表情や視線をしているが、そのことには美学的な理由がある。規範や空気に無頓着で、洗練をリラックスした形で体現し、造作なく優雅に振る舞うことができるさまを顔で実演しているのが、あの無表情なのだ。あの表情は、かっこよさの最もストレートな表現なのである。
哲学者。京都市立芸術大学美術学部デザイン科で講師を務める。著書に『増補改訂版 スマホ時代の哲学』『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』『鶴見俊輔の言葉と倫理』など。