博覧強記の料理人・稲田俊輔が、誰もが食べることができながら真の魅力に気づけていない、「どこにでもある美味」を語り尽くす。
第13回|汝のハンバーグを愛せよ
僕は普段名古屋に住んでいるのですが、ある時名古屋の友人たちと、静岡を小旅行したことがあります。夕方前に静岡駅に到着し、夕食にはまだ少し早いその時間、我々はカフェでまったりと時間を潰していました。
その時、静岡が誇るハンバーグレストラン〔さわやか〕の話題になりました。「すごくおいしいらしいから行ってみたいけどハードルが高いよなあ」と、ひとりが嘆息しました。さわやかは超人気店です。特に車での移動手段を持たない我々が行ける駅前の店は、早めに行って整理券をもらい、更に数時間待ってからでないと入れません。
メンバーの中には(僕を除いて)ひとりだけ、さわやかに行ったことのある人物がいました。Tとしておきましょう。Tはそれを受けて言いました。「いやでもさ、さわやかより、ブロ……」僕は大慌てでTの口を塞ぎました。そして自分の唇に人差し指を縦に真っ直ぐ当て、「しっっ」とその発言を制止しました。そして改めてあたりを見回し、この会話が店内の静岡県民たちに聞かれていないことを確認してから、Tを厳しく諭しました。
「みなまで言うな。そんな発言を今ここで誰かに聞かれたら、明日には簀巻きにされて駿河湾に浮かぶことになるぞ」
Tの言いたかったことは当然察していました。「ブロンコビリーの方がずっとうまい」、彼はそう主張しようとしたのでしょう。そして僕は、そんな彼の気持ちが痛いほどよくわかりました。なぜなら〔ブロンコビリー〕の「がんこハンバーグ」は、めちゃくちゃおいしいからです。
名古屋市民は、そんなブロンコビリーを心から愛しています。ただし、名古屋のハンバーグと言えば、〔ステーキのあさくま〕も深く愛されています。人気を二分しているとも言えるでしょう。ただしあさくまは、ハンバーグよりはステーキが売りで、そしてある意味それ以上に、恐ろしいまでの完成度を誇るコーンスープが絶大な人気を博しています。名古屋の人々が〔スガキヤ〕のラーメンスープで産湯を使うというのは有名な話ですが、ええとこのお子たちは、それがあさくまのコーンスープになるわけです。
閑話休題。今回はコーンスープではなくハンバーグの話です。
さわやかのハンバーグは、紡錘形のハンバーグが中心部はまだレアのままで運ばれてきた後、目の前でパカッと真っ二つに切断され、断面を熱々の鉄板にジューッと押し付けられることで完成します。ブロンコビリーのがんこハンバーグもほぼ同様ですが、形が棒状であることが大きな違いです。ただし、違いはこの形状だけではありません。両者の違いについて本気で語り始めると、どれだけ紙幅があっても足りませんので、ここは端折ってごく手短に説明します。
両者とも牛肉の旨味を最大限まで引き出したハンバーグという特徴を生かしつつも、さわやかのハンバーグは、挽肉をみっちりと練り上げたことによるのであろうブリンバンバンボンとした弾力により、肉を超えた別の何かにメタモルフォーゼを果たしています。対してブロンコビリーは、これはもはやハンバーグではなくステーキ以上にステーキなのでは?というくらい、肉そのものの肉らしさに特化したおいしさです。
正直なところ、強いてどちらが好きかと問われれば、個人的には、ひたすら肉肉しいブロンコビリーに軍配を上げます。僕は名古屋出身というわけではないのですが、かれこれ30年近く、この地に住居を構えています。あらゆるコーンスープをいただく度に、反射的にあさくまと比較してしまい、「あさくまよりシャビいがや」と名古屋弁で批判的な感想を脳内で呟いてしまう程度には、名古屋的価値観がすっかり身に染み付いています。
もちろんこの判定は、静岡県民にとっては我慢のならないことかもしれません。簀巻きにされても文句は言えない。しかしこの種のハンバーグ――パカッと割ってジューッと焼き付けるハンバーグは、何もこの二つだけではありません。僕は「パカジューハンバーグ」と総称しているのですが、これは他にもいくつか名店があります。代表的なところで言うと、北関東の〔フライングガーデン〕、神奈川発祥の〔ハングリータイガー〕など。
おそらく神奈川県民の多くは、ハングリータイガーを心から愛しています。そして心のどこかで、世間ではさわやかばかりが何かともてはやされがちな風潮に、憤懣やる方なき思いすら抱いているかもしれません。神奈川のみならず、いろんな場所で、そういう現象は起こっているはずです。人それぞれ思うところはあるでしょうが、飲食店との付き合い方で最も大事なのは、普段通える店に通い続けることです。評判を聞いて一回限り遠出するよりも、それはずっと尊いこと。
汝は汝のハンバーグを愛せよ。それこそが幸福というものなのではありますまいか。
料理人・文筆家。「エリックサウス」総料理長を務めながら、さまざまな食エッセイを執筆。近著に『食の本 ある料理人の読書録』『東西の味』(ともに集英社)などがある。