第15回|もし、幸福な経験を与え続けてくれる機械に接続できるとしたら?

1938年に生まれ、2002年に亡くなった哲学者。今回扱ったのは、リバタリアニズムを擁護した政治哲学書『アナーキー・国家・ユートピア』(木鐸社)の一節だが、経験機械の思考実験はその文脈を離れ、快楽功利主義の批判としても影響力を持った。彼の著作で入手しやすいものに、『生のなかの螺旋――自己と人生のダイアローグ』(筑摩書房)がある。
地下アイドルに入れあげて稼ぎを使い尽くす人や、自分を大事にしてくれない恋人に惹かれる人がいたとき、「……まあ、幸せならいいんじゃないかな」と口にしたことはないだろうか。
この立場は、幸福の「快楽説」と呼ばれる。快楽(pleasure)は、食事や性愛、心地よい気温などの身体的喜びだけでなく、精神的喜びも含んでいる。クラシック音楽や瞑想の楽しさも、ランニングの潑溂とした気持ちも、深酒の気だるい心地よさも、いずれも「快楽」である。
この立場は、「幸せって人それぞれよね」と普段語るときの立場を洗練させたものとみなすことができる。しかし、今回紹介する哲学者のノージックは、「経験機械」という思考実験によってこの議論を退けている。
望むどんな経験でも与えてくれる、経験機械があると仮定してみようと彼は言う。たとえば、傑作小説を書き、多数の友人に囲まれ、至上の食事を楽しみ、興味深い本や映画を味わうときに感じたり考えたりすることを実際に体験できる。だが、「その間ずっと、あなたは脳に電極を取りつけられたまま、タンクの中で漂っている」。もちろんその中にいる間は、「自分がそこにいることを知らず、すべて実際に起こっていると考えることになる」。果たして、経験機械に一生つながれるとすればどうするだろうか。
戸惑う読者に対して、「望ましい体験を失うのが心配なら」、複数の人々の多彩な経験のストックを踏まえて、数年ごとに経験を選びなおせる……などと様々な条件を付加し、経験機械を選び取る私たちの不安を取り除く。もちろん、私たちは経験機械への接続を選びたがらないだろうし、それを望むべきでもないとノージックは考えている。たとえ現実以上にすばらしい経験が得られるとしても、現実を捨てて幻想をわざわざ選ぼうともしないだろうと。
彼の議論は、「快楽説を否定するもの」と理解されている。仮に幸福=快楽なら、人はみな経験機械への接続に同意すべきだが、どうしてもそうは思えないはずだ。言い換えると、快楽説にはどこか無理があることになる。本人が楽しいと感じる経験だけでは足りないだろうとノージックは考えたのである。
だが心理学者のデ・ブリガードは、経験機械論を、快楽説ではなく現実性選好の問題として解釈した。映画『マトリックス』のように、自分はすでに経験機械に接続していると想定した上で、現実に戻りたいかを実験の参加者に聞くと、相当数が現状維持を希望した。ここから、人間は「現実」ではなく「現状維持」を好む傾向があると結論した。元の議論から趣旨はズレているが、いずれも人間理解を深める重要な知見だ。
哲学者。京都市立芸術大学美術学部デザイン科で講師を務める。著書に『増補改訂版 スマホ時代の哲学』『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』『鶴見俊輔の言葉と倫理』など。