2025.06.03
最終更新日:2025.06.03

フードエッセイスト・平野紗希子、壱岐のオーベルジュ「彼は誰」へ(朝食編)【大人の「おいしすぎる旅」】

その土地ならではの美食を楽しむための宿、オーベルジュ。近年日本でも盛り上がりを見せている旅の目的地の一つだ。そんな中、フードエッセイストの平野紗季子さんが足を運んだのは長崎県の壱岐島で3月にオープンしたばかりの「彼は誰」。豊かな島の食材をふんだんに使った料理と、島の景色を最大限に取り込んだ宿を堪能する大人旅を紹介。

ディナー編はこちら

エッセイスト、フードディレクター
平野紗季子

著書に『生まれた時からアルデンテ』『ショートケーキは背中から』など。今年4月にはポッドキャスト番組を書籍化した『おいしくってありがとう 味な副音声の本』を発売。

もはや“朝ごはん”の域を超える。絶品朝食を独り占め

平野紗季子

彼は誰のディナーは宿泊者以外でも予約可能だが朝食は一日一組の宿泊者だけに提供される特権。夜とはまた表情の変わる朝の海を眺めながら、朝食らしからぬ豪華な品々を自分だけのものに。

朝食

昨晩のディナーの満腹感をすっかり忘れてしまうほど、朝食もまた魅力的。鯖、ヒラス、ケンサキイカの刺身をはじめ、壱岐牛の牛すじの肉じゃが、カマスの一夜干し、だし巻き卵、湯豆腐、ふきの佃煮など、こちらも島の素材があちこちにちりばめられる。味噌汁には、丁寧に処理された鯛のアラが。朝も夜も「島を食べ尽くす」貴重な経験がかなえられる。

壱岐産の米を贅沢に土鍋で炊いたご飯

壱岐産の米を贅沢に土鍋で炊いたご飯。大きな窓から差し込む朝の日差しに米粒が輝いてまさに眼福。

ケンサキイカの刺身は地鶏の卵黄と醬油で

ケンサキイカの刺身は地鶏の卵黄と醬油で。イカと卵のまろやかさが合わさって最高に濃厚。残った卵はご飯にかけても。

和食の経験もあるシェフが“スペシャリテ”と謳うだし巻き卵

和食の経験もあるシェフが“スペシャリテ”と謳うだし巻き卵。席に着いてから焼き始めるため、できたてのアツアツを味わうことができる。

シェフの辻信太郎さん(右)とインテリアコーディネーターの篠㟢千恵美さん(中)、建築家の篠㟢竜大さん(左)

彼は誰は、壱岐出身の3人が始めたプロジェクト。シェフの辻信太郎さん(右)とインテリアコーディネーターの篠㟢千恵美さん(中)、建築家の篠㟢竜大さん(左)は島で育った同級生だ。それぞれが東京で各分野の研鑽を積み、地元に戻ってオーベルジュをオープン。彼は誰にとどまらず、壱岐の将来を自分たちらしく盛り上げたいというコンセプトでこの先も事業を進める予定だそう。

彼は誰 内装
平野紗季子 2

「彼は誰」

長崎県壱岐市芦辺町芦辺浦648-2
(おまかせコース/朝食プラン) 金〜月曜 1泊2食付き¥38,500/1名
(素泊まりプラン) 火・水・木曜 ¥16,500/1名 
※レストランのみの利用も可。コースの内容は時期により変更あり

「私は、誰?」

平野紗季子 3

 疲れていた。ちょっと働きすぎていた。少し隙間ができても脳はせわしなく回転し続け、呆然とスマホをスクロールすることしかできない。まるで心を持たない機械のように、私は反射的に指を動かしていた。そんなとき、ふと飛び込んできたのは、朝日に染まる不思議な空間の写真だった。やわらかなオレンジ色が部屋を包み込んでいる。壱岐。長崎の離島に、特別なオーベルジュがあるという。私は直感的に「ここに行くんだ」と決意した。無感情な日常を強制終了するみたいに、福岡行きのチケットを予約した。

 博多港から、水中翼船でおよそ1時間。その日私を迎えてくれたのは、静かな青だった。波もなく穏やかな海。「白波が立って真っ白な日もあるんですよ。怒っているみたいにね」とタクシーの運転手さんが言う。今日の壱岐は機嫌が良いらしい。「〈彼は誰(かわたれ)〉というオーベルジュまでお願いします。はい、新しくできたみたいで……」。

 彼は誰、 口にすると不思議な響きがある。それは、朝と夜のあいだ、光と影のあいだにある言葉だ。向こうに誰かがいるようで、いないようで、誰なのか判断できない。曖昧で、しかし最も美しいとされる時間帯。かすかに差す光が、物の輪郭を曖昧にし、風景と記憶を混ぜ合わせる。

 清石浜の高台に、宿は佇んでいた。元・公民館という建物には、子供たちの歓声、地域のざわめきが染み込んでいたのだと思う。空間の設計者でオーナーでもある建築家・篠㟢竜大さんと千恵美さんのご夫妻は、それを無理に消そうとはしなかった。むしろ、過去と現在が溶け合うように軀体を大胆に残した。壱岐に生まれ、壱岐に育った彼らだからこその決断だったのだろう。

 温かな自家製レモネードを頂きながらチェックインする。案内された部屋は、余白が豊かだった。本来なら二室作れるほどの広さだが「壱岐でやるなら、そうじゃないよね」と、あえて一日一組にしたのだという。なんて贅沢だろう、私だけが独り占めできる光がある。左官仕上げの壁は、白やピンクが幾層にも塗り重ねられ、部屋全体を柔らかに満たしていた。窓から見える海は絵画のようで、私はソファに沈み込むように座り、ただ目の前にある美しさを眺めていた。移ろいゆく空と光。島風が人をほどく。その隙間に、きっと創造性が生まれる。

 日が傾き始めた頃、夕食の時間が始まった。海と空が溶け合い、水平線の向こうに島の一日がゆっくりと吸い込まれていく。ダイニングで迎えてくれたのは、シェフの辻信太郎さん。辻さんも壱岐出身で、篠㟢夫妻とは中高からの同級生。東京の最高峰のフレンチレストランで研鑽を積み、都ホテル博多の総料理長を務めていた頃、篠㟢夫妻から「壱岐でオーベルジュを一緒にやらないか」と相談を受けた。「ものすごい熱量でした(笑)。でも僕自身、都市で働く中で、壱岐の食材の底力には気付かされてきました。野菜も牛肉もジビエも魚も果実も。南から北まで車で三十分もかからない島に、すべてが揃っているんです」。

 辻さんの料理には、“近さ”がそのまま息づいている。収穫したてのいちごは新鮮すぎてサクッと瑞々しい食感があり、トマトのタルトにはカタバミが添えられていた。農家さんを訪ねたとき、畑の脇に生えていた野草を摘んだのだという。自然へのフラットな眼差しと敬意が、皿の上に息づいている。だから彼の料理は、“おいしいですよね?”と説得しようとするところがない。確かな芯と技術がありながらも、あくまで柔らかで、一皿一皿に壱岐の風景と時間を宿している。壱岐で獲れた柑橘のデザートには、清見オレンジのソーダが添えられ、昼間に眺めた水面のようにシュワシュワと煌めいては消えていった。

 お腹いっぱいのまま眠りに落ちて、夢から覚めても夢の続きが待っているのがオーベルジュのピークだと思う。朝ごはんの時間だ。土鍋で炊き上げた白米は艶々とまばゆい香りを放ち、真鯛や甘鯛のあら汁がベースになったお味噌汁には「あなた、本当にお味噌汁ですか?」と問いかけてしまった。あまりにもプレミアムだったのだ。「都会にいる頃は、1キロのアラを買おうと思ったらなかなかのお金が発生するんですが、ここでは“お金なんていらないよ”と言われてしまう。もちろんお支払いするけれど、その分贅沢にたっぷりと使わせて頂いてます」と辻さんは笑っていた。

 やがて、帰りの時間が近づいてくる。私はぼんやりと〈彼は誰〉という言葉の奥にある意味を考えていた。それは他者への問いであると同時に、“自分は誰なのか”を静かに問い直すものではないか。私は誰で、どんなことが心地よく、どんなことに心が動くのか。壱岐で過ごした時間は、自分自身がひとつの感動する主体であることを、取り戻させてくれるかのようだった。

 こんなにも素直に心の変容があるなんて。それをもたらしてくれたのは、この宿が、どこまでも個人的なプロジェクトだからなのだと思う。壱岐という土地を深く愛する人たちが、その眼差しの先に作った場所。自分たちの暮らしと言葉で築いた空間。誰かに見せるためにではなく、まず自分たちの手で確かめたかった風景。誠意と対話の集積として生まれた〈彼は誰〉で過ごす時間は、今の私にとって、切実なほどに必要なものだった。

文・平野紗季子

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