2025.06.24
最終更新日:2025.06.24

【稲田俊輔のうまいものだらけ】第4回|吉野家の塩気の立った味噌汁と牛丼のマリアージュ

博覧強記の料理人・稲田俊輔が、誰もが食べることができながら真の魅力に気づけていない、「どこにでもある美味」を語り尽くす。

第4回|𠮷野家の塩気の立った味噌汁と牛丼のマリアージュ

 私の記憶が確かであれば、かつて昭和の時代、吉野家の味噌汁はおそらく粉末状のインスタント味噌汁をお湯に溶いたものでした。当時なぜそう確信したかと言うと、それは永谷園の粉末インスタント味噌汁「あさげ」と味がそっくりだったからです。本当にそれそのものだったのかもしれません。

 と言っても当時僕はまだ子供と言っていいくらいの年齢でしたから、まだまだ食の経験値も少なく、あの味噌汁が「あさげ」だったというのが単なる思い込みだった可能性は多分にあります。しかしその後、これは平成に入ってからですが、その味噌汁の味が突然大きく変わった瞬間があったのは確かです。

 どう変わったのか。ひと言で言うならば、それは「リアル」になりました。本物の味噌汁に近付いたのです。本物と言うと、それまでの吉野家の味噌汁が偽物だったのか?という話にもなるのですが、それはここではいったん置いておこうと思います。

 ここからはまた当時の僕の印象になります。その味噌汁は、家庭で作られるような普通の味噌汁に接近したとも言えたのですが、それそのものともまた違いました。おそらくなのですが、当時粉末インスタント味噌汁に代わるように世間に普及し始めた、生味噌タイプのインスタント的なものだったのではないかと思います。当時の状況を、あくまで吉野家側に立って想像してみると、それはイノベーションだったはずです。「生タイプという当時の新しいテクノロジーを導入しプロダクトの品質向上をはかりました」という、極めて正しい企業努力です。

 しかし僕は当時、この新しい味噌汁に全く馴染めませんでした。何ならマズくなったとすら感じたのです。いや、新しい味噌汁がマズかったと言うより、それまでの味噌汁がおいしかったことに、その時改めて気付いたという方が正確かもしれません。

 その粉末時代の味をあえて言語化するならば、だしの味わいも味噌の風味も希薄で、塩気ばかりが立った味と言えるでしょう。具は形ばかりの細片でしたから、それが汁の味に及ぼす影響もほとんどなく、そして味噌でもなくだしでも具でもない、何だかよくわからない不思議な風味がそこにうっすら漂っていました。

 こういう説明だとちっともおいしそうに感じられないかもしれませんが、実際のところ、それはやはりおいしかったのです。もしかしたら、牛丼との相性という面が大きかったのかもしれません。牛丼というそれ自体完成された味に対しては、味噌汁と言うには味の情報量が少ない塩っぽい濁り汁こそが、最適なマリアージュだったということです。鰻丼に合うのが味噌汁ではなくお吸い物、というのと、どこか通じるものも感じられます。

 そしてそのように感じたのは決して僕だけではなく、どうも吉野家ファンのむしろ大半にとってそうだったようなのです。つまり、イノベーションは不評だった、ということです。なので、その新しい生タイプ味噌汁は、比較的わずかな期間でまた元の仕様に戻されました。単に元に戻っただけだったのかはわかりません。当時の僕は、この第三形態は基本的に第一形態に戻りつつ、どこかに第二形態の面影も残している、という印象を持ったことを、うっすら憶えています。

 それから長い年月が経ちましたが、今でも吉野家の味噌汁は、この時の第三形態の味を割とそのまま引き継いでいると感じます。その間、世の中は大きく変わりました。生味噌タイプの味噌汁は進化を遂げ、今は家庭の味噌汁と遜色ないどころか、器を変えれば高級和食店の味噌汁と言われても違和感のないレベルに達しています。粉末タイプの技術が発展したものとも言えるフリーズドライタイプの味噌汁は、一見どうでもいい人にあげるための海外土産の入浴剤のごとき見た目ですが、味は進化した生タイプにも決してひけをとりません。

 そして吉野家のライバルとも言える松屋は、味噌汁を無料で提供し続けているというだけでも驚異的なのに、それを家庭や和食店と同様の「リアルな」味噌汁として進化させてきました。

 そんな中にあって吉野家は、我関せずとばかりに、相変わらず塩気の立った極端にシンプルかつ謎の風味漂う味噌汁を提供し続けています。やはり吉野家の牛丼に一番合うのはこれなのでしょう。少なくとも僕はそう確信しています。そこにはどこか、CG全盛の現代においてドット絵を貫くゲーム製作者にも通じるような、ある種の気概すら感じます。

 そんな変わらぬ吉野家の味噌汁に、近年ちょっとしたイノベーションがありました。具にわずかばかりの「あおさ海苔」が加わったのです。このささやかな変化で、牛丼との相性は損なわれないまま、おいしさは大きく向上したと感じています。ネットから意見を拾うと、世の中ではこれを歓迎している人ばかりというわけでもなさそうではあります。しかし個人的にこのイノベーションに関しては、その英断を貫き通してほしい。そう勝手に願っています。

𠮷野家の塩気の立った味噌汁と牛丼のマリアージュ
稲田俊輔

料理人・文筆家。「エリックサウス」総料理長を務めながら、さまざまな食エッセイを執筆。近著に『食の本 ある料理人の読書録』(集英社)や『ベジ道楽』(西東社)などがある。

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