博覧強記の料理人・稲田俊輔が、誰もが食べることができながら真の魅力に気づけていない、「どこにでもある美味」を語り尽くす。
第9回|奥深き「消されメニュー」の世界
飲食店では、メニューをじっくり読み込むのが好きです。世の中には、注文するものが決まるや否やメニューブックをパタンと閉じてしまう人も少なくありませんが、これは少しもったいない。メニューとは、その店の来し方行く末を雄弁に物語る、ロマンの宝庫なのです。
そんなメニューにおいて、妙に気になるのが「消されメニュー」。メニューの一部が、上から黒マジックで塗りつぶされたり、白いテープを貼られたりして消されているものです。僕はこれを見つけると、かつてそこに何が書かれていたのか、気になって気になって仕方がありません。そんな時の僕は、古代の碑文を解読する考古学者のようであり、また、僅かな証拠から真実を炙り出す探偵のようでもあります。
まずはメニュー全体を概観します。消されメニューが複数ある場合、食材は共通している可能性が高いです。そこで、「この店に有ってもおかしくはないけど、有ったところであまり売れず、仕入れが無駄になりそうな料理はなんだ?」というざっくりとした推理と共に、メニューの並びをじっくり見ていきます。
例えば「鍋物」と「炒め物」にひとつずつ消されメニューがあり、鍋物の方を見ると、そこの並びはこんな感じです。
湯豆腐
鶏鍋
豚鍋
「消されメニュー」
キムチ鍋
これは消されメニューが確実に鍋料理であり、かつおそらく湯豆腐よりキムチ鍋寄りの鍋であることを示唆します。そうなると可能性はおのずと限られてきます。牛すき鍋、あるいはモツ鍋といったあたりではないでしょうか。
そこで今度は炒め物のエリアを調査します。
ニラ玉
レバニラ炒め
「消されメニュー」
豚キムチ炒め
この全体に漂う「スタミナ感」、そしてこの店があるのは東京の下町、という地域性……牛肉の炒め物はなんだかしっくりきません。しかしホルモン炒めならば実に納まりが良い。であれば必然的に、鍋の方はモツ鍋ということになります。鍋野菜も、もやしとニラでレバニラと共通しており、無駄がありません。間違いない、この店から消えた食材は牛ホルモンです。
それが分かれば、次のステップに移ります。なぜ消されたのか、その謎を探っていくのです。この牛ホルモンの場合はどうでしょう。メニューのその部分だけを見れば、決して極端に売れないメニューとも思えません。しかし、実はこの店の一番の看板メニューは、「焼きとん」です。つまり豚ホルモンの料理。しかもそれはとても安い。お客さんたちはきっとこの「焼きとん」で、ホルモン欲をすっかり満たしてしまい、それより幾分高価なホルモン炒めやモツ鍋にまでは、なかなか手を出しにくかったのではないでしょうか。
このことは逆に言えば、看板メニューである焼きとんがしっかり売れている、ということでもあります。だからこの推理小説はハッピーエンドです。
しかし、少し哀しい消されメニューもあります。それが「消されていない消されメニュー」。高齢のご夫婦でひっそりと営まれているような、中華料理店や洋食店で度々出会えます。出会えます、というか出会えないわけですが。
これは要するにテープなどで物理的に消されてはいないけど実質的には消されメニューなので、メニューに書いてあるからとそれを注文しても、今日はできない、と言われます。しかし実は、できないのは今日だけではないことがほとんどです。たぶん未来永劫できません。経験上、中華だと「肉だんご」、洋食なら「グラタン系」が、これにあたることが多いようです。
どちらもかつては外食の定番メニューでした。むしろ花形だったと言ってもいいでしょう。しかし今や、その相対的な価値は下落の一途です。世の中に手軽で安価な出来合い品が溢れているからです。本当は、そういう店の手作りのそれは、やはりひと味もふた味も違うおいしさなのですが、もはや誰もそんなことを知りません。憶えてもいません。
そもそもそういった店では、今やほとんどのお客さんが「定食」や「セット」だけをそそくさと食べています。単品料理なんて誰も頼みません。しかしその店も、かつては「街一番のレストラン」でした。食通の紳士たちは肉だんごに舌鼓を打ち、初々しいカップルは初デートでグラタンを選びました。しかし残念ながら、そんな日々はもう戻ってきません。
消されメニューが消されていないことを、店主の怠慢と言うのは容易い。しかしそれは無慈悲というものです。かと言って、高齢ゆえに細々したことに手が回らないのだろう、と同情するのも失礼な気がします。店主の心の中には、たぶん過去の思い出と誇りが息づいています。いつかまたそんな日が、とまでは思っていないかもしれませんが、それをただ消して無かったことにするのはあまりに忍びない。
もしあなたが「消されていない消されメニュー」に遭遇したら、そこはたぶん、ひっそりと往時のロマンが息づく素敵なお店です。どうかお大事になすってください。
料理人・文筆家。「エリックサウス」総料理長を務めながら、さまざまな食エッセイを執筆。近著に『食の本 ある料理人の読書録』(集英社)や『ベジ道楽』(西東社)などがある。