2025.10.23
最終更新日:2025.10.23

ピッツァをナイフとフォークで食べる快楽【稲田俊輔のうまいものだらけ|第7回】

博覧強記の料理人・稲田俊輔が、誰もが食べることができながら真の魅力に気づけていない、「どこにでもある美味」を語り尽くす。

第7回|ピッツァをナイフとフォークで食べる快楽

 若干の躊躇いを覚えつつ告白します。僕はピザ……いや、ピッツァをナイフとフォークで食べるのが好きです。嗚呼、もうこの時点で、僕は少なからぬ人々の冷ややかな視線を感じます。

「本場イタリアでは、ピザは手づかみではなくナイフとフォークで食べるものである」というウンチクは、今やけっこう巷間に広まっています。それだけに、「このイナダという奴はそのような本場の流儀とやらに形式的に囚われるタイプの俗物に違いない」と思われることを、至って小心者で世間体を気にするタイプの僕は恐怖するのです。

 世の中には、ピザではなくピッツァと言いたがる人々が一定数存在します。甚しくは、ドミノピザのピザはピザと呼び、ナポリピッツァ専門店のピッツァはピッツァと呼ぶ、そんな使い分けを律儀に行う面倒なタイプの御仁もいます。僕はまさにこの御仁です。

 僕は確かに俗物であり、面倒なタイプかもしれません。良く言ってせいぜい『ちびまる子ちゃん』の花輪クン、悪く言えば『おそ松くん』のイヤミ、更に悪く言えば『美味し●●』の●●●●(自主規制による伏字)のようなイメージを持たれたとしても、殊この件に関しては、甘んじて受け入れるしかないと半ば諦めてもいます。

 しかし僕は、そのような苦境に立たされたとしても、どうしても主張したいのです。ナポリピッツァは手づかみで食べるよりナイフとフォークで食べる方がうまい、という厳然たる真実を。宗教裁判の場で「それでも地球は回る」と嘯いたガリレオ・ガリレイのように……。

 目の前に、煉獄の炎で焼かれたが如き、熱々のピッツァが到着します。その香り立つ湯気の主役が、チーズやハーブよりむしろ焦げんばかりの、というか明らかに焦げの入り混じる猥雑な香ばしさであった時、勝利はほぼ確定しています。その半ば焦げつつボコボコと膨れ上がったバリバリかつふくよかなフチからマグマのように混沌と蕩けた中心部までをナイフで切断し、ロンギヌスの槍の如き鋭い二等辺三角形を切り出します。先端から丸めるように折り畳み、それを一塊の情熱にまとめ、フォークで突き刺し、すぐさま口中に放り込みます。マグマの熱さに怯えつつ嚙み締めると、ブシュワーッと情熱が逬ります。情熱の一部は口中の味蕾を直接襲い、圧倒的な陶酔をもたらしつつ、大半はいったん生地に受け止められます。更に嚙み締めると、今度はモチモチと官能的な生地の食感とマグマが一体化した混沌が、口中に完璧な至福をもたらします。これがピッツァの真実なのです。

 この真実は、驚くほど知れ渡っていません。僕の行きつけのピッツァ屋さんでも、ほとんどのお客さんは、ピザカッターで機械的に切断したピッツァを手づかみで漠然と食べています。ナイフとフォークで猛然と情熱の塊を作製して次々に頰張る僕は、おそらく「変なおじさん」と目されていることでしょう。涙が溢れて、塩気しっかりのピッツァが更に塩っぱさを増します。

 しかし時に、隣席の初々しいカップルなどが、あまりに堂々とした僕の所作を二度見し、「えっ! そうやって食べなきゃいけないの?」と思ったのか、不安な面持ちで律儀に真似してくれることがあります。僕は見て見ぬふりをしながら、内心で歓喜に打ち震えます。

 しかし何故かそのカップルは、経験不足も災いしてあまりうまいこと情熱をまとめることができなかったためか、気付けば手づかみに逆戻りしているのです。僕のことは「なーんだ、ただの変なおじさんだったのか」ということで無言のまま決着が付いたようで、不安から解放され、一枚のピッツァを仲良く分け合いながら、微笑みを絶やすことなく見つめ合っています。僕は「幸多かれ」と心の中で呟きながら、もう一粒、こっそりと涙を溢すのです。

 極上のピッツァをナイフとフォークで食べる快楽を知ってしまった僕は、かのイタリア料理界の泰斗であるサイゼリヤにおいても、その流儀を貫きます。そのピッツァは、残念ながら、極上とまでは言えないかもしれません。中心部はマグマと言うより、うっすら温かみを帯びた適温のお風呂程度ですし、生地の香ばしさは毎朝のトースト程度です。それでも、ささやかだけど確かな情熱が感じられるのは間違いありません。

 ただ残念なことがひとつあって、それはかの店のナイフの切れ味があまりにも鈍いことです。なので僕は、左手にフォーク・右手にはピザカッターという変則的な二刀流で、ロンギヌスの槍を切り出します。

 その姿を客観視すると、どこか昭和のロボットアニメの悪役ロボットのようです。回転カッターは男子のロマン。僕は小学生の時に摑まされたガンプラのバッタもんのことなどを思い出しながら、ギーガシャン、ギーガシャンとマルゲリータを切断します。完全に変なおじさんですが、サイゼリヤは変なおじさんも優しく受け止めてくれる懐の深さもある素晴らしいお店なので、僕は心安らかに、微かな情熱を一口にまとめ続けるのです。ギーガシャン。

ピッツァをナイフとフォークで食べる快楽 イラスト
稲田俊輔

料理人・文筆家。「エリックサウス」総料理長を務めながら、さまざまな食エッセイを執筆。近著に『食の本 ある料理人の読書録』(集英社)や『ベジ道楽』(西東社)などがある。

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