第20回|感動大作を読んで泣く読者は18世紀からいた?
1669年に創立されたオーストリアのインスブルック大学の教授。18世紀英語圏の読書文化や感性史の研究を踏まえつつ、現代のデジタル文化における読書を研究している。読書については、メアリアン・ウルフ『デジタルで読む脳×紙の本で読む脳』(インターシフト)、ピーター・メンデルサンド『本を読むときに何が起きているのか』(フィルムアート社)も参考になる。
本を読みながら嗚咽する友人を撮影した動画。感動大作を読みながら、涙を隠せなくなっていく読書Vlog。TikTokやYouTube、Instagramでは、読書で泣く動画が一大ジャンルとなっている。
読者の泣くリアクション動画では、タイトルには「泣ける本4選」などの言葉が、サムネイル画像では泣き顔の絵文字が用いられる。言語と視覚の表現を組み合わせ、隠すことができないほど強烈な涙や嗚咽がもたらされることが明示されがちなのだ。「強い感情表現こそが、本や読書の質を表している」との認識が、SNSユーザーには共有されている。
読書中の泣く姿を投稿すると聞くと、例の「全米が泣いた」を思い出して「軽薄だ」「安っぽい」などと批判的なことを言いたくなるかもしれない。しかし、泣く読書姿をシェアすることは、歴史的には評価すらされてきた読書行為なのだ。バークによると、18世紀の読書文化では、「泣きながらの読書」が広く人気を集めていただけでなく、哲学者や小説家が真剣に受け止めていた時期がある。つまり、作品だけでなく、読者の「感受性」が、18世紀に高い関心を集めていたのである。泣く読書Vlogと18世紀の読書文化には一定の共通点がある。
文芸批評では、泣かせた人の数=作品の価値と考えられることは普通ない。しかし18世紀には、読書中の涙に道徳的・美学的な価値があると考えた小説家や哲学者が存在した。読書内容に応じて時宜にかなった仕方で涙を流せるのは、感受性の鋭敏さ=共感性の高さの証しであり、このことが利己主義の克服につながると捉えられたからだ。現代と同じく18世紀も、読書が「行為」であることを重視していたのである。
また、18世紀には小サークルで一緒に読書することが珍しくなかった。必ずしも小説全編を朗読したわけではなく、様々な作品からの抜粋集を使うことも一般的であり、その際には感傷的な場面が含まれることが多かった。つまり、泣くことを共有する読書もまた行われていたのである。読書Vlogは、地理的制約を外して画面の向こう側の読者と、その感傷性を共有する読書(shared reading)を提示していると言えるだろう。
さらに、適切な涙は自発的な反応であり、読者の感受性を証明するものだとされた。偽りない内面を経て表出されたと思われる涙は、その体験の本物らしさ(真正性)を示唆するだけでなく、涙のきっかけである読書内容の質の高さを保証するものになっている。読書体験が涙を通して「本物」として演出されているのだが、投稿者も視聴者もその演技性を自覚しつつ楽しんでおり、この考えもまた18世紀と現代で共通している。真新しい文化を作ったつもりでも、私たちは歴史とつながっているのだ。
哲学者。京都市立芸術大学美術学部デザイン科で講師を務める。著書に『増補改訂版 スマホ時代の哲学』『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』『鶴見俊輔の言葉と倫理』など。