現在公開中の映画を、菊地成孔が読み解く。
『旅人の必需品』
俳句のようにさっと作ってさっと出す
ホン・サンス、いよいよ落ち着いてきました
韓流ブームの陰でずっと興行的に不遇だったホン・サンス。ポン・ジュノが『パラサイト 半地下の家族』(2019年)で米アカデミー賞を制し、BTSがグラミー賞に輝き、頂点を極めたK-カルチャーの地熱も落ち着いてきたところで、ようやく若い人たちも抵抗なくホン・サンスを観るようになったよう。近作5本が《月刊ホン・サンス》として5カ月連続で公開。その第1弾が『旅人の必需品』(2024年)です。
今までのホン・サンスは、画面の解像度がいくら上がっても、デジタル操作ではなく、アナログな手操作の感覚があった。唐突なズームアップなどはその象徴で、どこかインディーズであろうとしていた。
主演のイザベル・ユペールと初めて顔を合わせた『3人のアンヌ』(2012年)なんて、韓国産前衛の頂点と言ってもいいくらいの映画でしたが、もうそんなふうに驚かせたりはしない。劇映画の伝統と言ってもいい画が入ってきたりする。シネフィルの本懐に返った趣さえある。
マッコリ好きのフランス人女性が英語を介して、エリートカップルたちにフランス語を教える。そして語学を通して、何でもOKな都市生活者たちに精神分析的な問いかけをする。この思いつきだけでも、もう面白い。
時制のシャッフルなどの大技はなく、真っ当に横に流れていく脚本。奇策も奇手も打たないよと。あるのは、ただ自然主義的で草食な文芸だけ。謎もなく、ごく普通に「いい映画だよ」と人におすすめできる。ホン・サンスが小津安二郎をやってくれているありがたさがある。
毎度お馴染みの手書きタイトルも、考えてみれば1940〜’50年代の日本映画の題名の出し方への素直なリスペクトだったのかもしれない。
気難しさを感じないし、意地悪な感じもまったくない。もはや日本では作られなくなった文芸の小品。監督デビューから30年。いつやめてもおかしくないと同時に、やめる必要もない。一作一作命を削っているような作品ではないから、思いついたら日記みたいにさっと撮ってさっと出すことが可能。もはやおじいさんの俳句です。
韓流ブームも落ち着き、ホン・サンスも落ち着き、これまで一生懸命応援してきた人たちの心もようやく落ち着いたのでは、と胸をなで下ろしています。(談)
『旅人の必需品』
脚本・監督・製作・撮影・編集・音楽/ホン・サンス
出演/イザベル・ユペール
《月刊ホン・サンス》と題して11月1日よりユーロスペースほかにて新作を5カ月連続で順次公開
『3人のアンヌ』『クレアのカメラ』に続くホン・サンス×イザベル・ユペール、3作目のコラボ。焼酎で泥酔するのではなく、マッコリでほろ酔いする感覚の小品。「すべてがすっきりしていて、嫌みがなく、いい意味で何も驚かせない。ベルリン国際映画祭銀熊賞(審査員グランプリ)という受賞結果さえも毎度お馴染み」と菊地さん。
音楽家、文筆家、音楽講師。最新情報は「ビュロー菊地チャンネル」にて。
ch.nicovideo.jp/bureaukikuchi
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