現在公開中の映画を、菊地成孔が読み解く。
『親友かよ』

トラップの緩さが新しい朴訥さを運ぶ
ユニークで憎めないタイ産の青春映画
交通事故死した同級生のために、まだ彼と出会ったばかりの転校生が映画作りを始める。短編映画コンテストに入選すると試験免除で大学に入学できるから。しかし、それは友情と言えるのか…?
学園青春ものなのにトラップが二つある。途中でこのトラップがひっくり返り、巧妙で面白い。しかし1個目も、2個目も実は穴がある。これが欧米の映画なら、その粗にいろいろ言いたくもなるが、タイ映画だからなのか、むしろほほ笑ましい。劇中の男の子たちが仕掛けたトラップにも思えて、かわいいなと感じる。しかし、それでいいのかと後ろめたさも感じてしまう。
かつては先進国/発展途上国というカテゴライズが明確でした。日本はどこよりも早くアメリカナイズされ、経済的にも文化的にも欧米化が進んだ。なのでほかのアジアの国々に対してどこか上から目線。映画で見る台湾、中国、ベトナムなどの田園風景や純朴な人間性に郷愁を覚えていた。20世紀はそれでよかった。しかし、今やタイの映画を観て「これが本来の青春だよね。懐かしい」など口にしていいものかどうか。もはやこうした視線は危ういのです。
でもこの映画には純朴さが確かにある。トラップが緩いということは、タイの人は観客に罠を仕掛けるときも優しいということ。しかし、それをかわいいと思っていいのか? かと言って、この映画に厳しく接したいとも思わない。
そもそもトラップが仕掛けられている時点で、ノスタルジックでも朴訥でもない。しかし、トラップそのものが朴訥。これは不思議で新しい感覚。朴訥さの質として新しい。
ポン・ジュノの『パラサイト 半地下の家族』や黒澤明の『天国と地獄』のように圧倒的な貧富の差を転覆させるような革命や暴力性は描かれない。金持ちは出てくるが、その家の子は難病で、富裕層と貧困層の対比や妬み、恨みがない。これは仏教国ならでは。そのためテーマである「友」の価値も平板化しているが、逆に仏教っぽい。輪廻思想が物語のキーとなっており、これがアメリカ映画のマルチバース=多元宇宙ともリンクする。タイがギリギリのところでアメリカナイズされかけている。「お願い、スレないで」とも思うが、そこに後ろめたさも感じる、やはり新しい感覚の映画です。(談)
『親友かよ』
監督・脚本/アッター・ヘムワディー
出演/アンソニー・ブイサレート
6月13日より新宿シネマカリテほか全国順次公開
無試験で大学に進学するため、事故死した同級生を題材に短編映画を撮ることにした高校3年生。学校も親も喜ぶ美談だが、彼は本当に“親友”だったのか? 二転三転する物語運びに、独創的な愛らしさが宿ったタイ映画。濃密かつ爽やかな友情論としても楽しめる映画作りをめぐる物語。プロデュースは『バッド・ジーニアス 危険な天才たち』のバズ・プーンピリヤ。
音楽家、文筆家、音楽講師。最新情報は「ビュロー菊地チャンネル」にて。
ch.nicovideo.jp/bureaukikuchi
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