現在公開中の映画を、菊地成孔が読み解く。
『メガロポリス』

私財を投入し撮りたいものを撮った
コッポラ渾身の超大作が意味するもの
フランシス・フォード・コッポラは『メガロポリス』でゴールデンラズベリー賞最低監督賞に選ばれましたが、これは変わった映画体験でした。20世紀なら“コッポラが晩節を汚した問題作!”とかうたいながら結構な拡大公開されていたことでしょう。でも今の血も涙もない時代には買いつけないという選択になってしまう。
40年越しの企画。ところが突然どうしても作りたくなって突如撮影された個人映画に見える。しかもかなりの私財を投入。そんなことができる監督はいません。タイトルからして『メトロポリス』(1926年、フリッツ・ラング監督)に捧げている。『ゴッドファーザー』でマフィアを扱い、『地獄の黙示録』ではベトナム戦争を描き、夢のような『ワン・フロム・ザ・ハート』も撮った。だからもう’20年代まで遡るのだと。さらにニューヨークを古代ローマに、主人公をジュリアス・シーザーに見立て、古典に回帰する。アイデアが学生映画のようです。
残念ながらコッポラは早くに才能が枯渇した。だがそれは彼だけに言えることではなく、ベルトルッチだってテレンス・マリックだってタランティーノでさえ、全盛期に比べれば近作はスカスカ。スコセッシやポール・トーマス・アンダーソンも同様。ただ、誰も『メガロポリス』のようなことはやらかさない。コッポラは真似できないことをやった、とも言える。
けっして、つまらなくはない。撮影はきれいだし、衣装も素晴らしい。だが、かつての音楽センスが感じられず、女優もフェティッシュに撮られていない。だから物語が動きださない。そして主演アダム・ドライバー。またしても、誰もが手に余る大作を引き受けるお助けマンと化している。実績から言えば、若きデ・ニーロと言ってもいいくらいの名優なのに、請負人としての仕事が続きすぎ、もう“今度はどんな芝居を見せてくれるのか?”と期待できなくなった。
スピルバーグやウディ・アレンのように最前線でクオリティを落とさずにいるベテランはごくわずか。なのに“一流の監督はずっとよい映画を作り続けている”という幻想にわれわれは洗脳されてきた。21世紀も4分の1が終わる。そろそろ“実はそうでもなかった”と総括すべき。『メガロポリス』は一つの時代、つまり20世紀の終わりを象徴する作品かもしれません。(談)
『メガロポリス』
脚本・製作・監督/フランシス・フォード・コッポラ
出演/アダム・ドライバー、ジャンカルロ・エスポジート、ナタリー・エマニュエル
全国公開中
資金が集まらず、監督が所有するワイナリーの大半を売却。ついに完成したものの、全米での配給もなかなか決まらなかった曰くつきの超大作。未来のニューヨーク=ニューローマを舞台に、理想主義の建築家と利権に固執する市長の対立を軸に描く。「コッポラがのびのび撮っているので悲しい気持ちにはならない。同じアダムなら『アネット』よりこっちが好き」と菊地さん。
音楽家、文筆家、音楽講師。最新情報は「ビュロー菊地チャンネル」にて。
ch.nicovideo.jp/bureaukikuchi
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