この心のザワザワ
きっと誰もが思い当たるはず



 現代社会をサバイブするさまざまな主人公の一人称で書かれた短編集です。



 缶コーヒーではなく、キツネコーヒーを飲むことで表層だけのカルチャーを身に纏う。なにごとも上から目線で人を馬鹿にしている。かといって自身がキラキラすることもできず、重圧に押し潰されて故郷の岡山に戻り教員になった男性。彼は自分の置かれている状況を理解するクレバーさがあるにもかかわらず、東京のカルチャーへ憧憬を引きずったまま生きています。


 郊外のファミリー向けマンションに住む元カレをダサいと嘆き、清澄白河のマンションに一人で暮らし、職場にはびこるパワハラ、セクハラに耐える慶應卒のアラサー女子は、じつは自分が一番ダサいのではと薄々感づいています。


 そんな人たちの独白が淡々としたペースで続くこの小説。年齢も、性別も異なる彼・彼女らに共通しているのは、過剰な自意識。登場人物の置かれた状況を説明すると、「東京タワーの見える部屋」に象徴される競争のトロフィーを目指した救いのない無理ゲーの中で生きる閉塞感や、結果が先に予想できてしまう諦観がうずまく世界を思い浮かべてしまうかもしれません。でも、この作品の初出がTwitterだったからか、麻布競馬場の文章は、不思議なテンポの良さがあり、現代人のかかえる不条理をシュールな笑いに昇華させてくれるんです。


 そして、登場人物の吐く「毒」に、共感するんですよね。置かれたシチュエーションは自分とは違うのですが、全ての登場人物の気持ちの吐露に、なんとなく心当たりがあるというか。あ、自分もこの人と同じような、ひねくれたことを思ってしまったことがあるって。それはまるでメタバース世界を生きる自分のアバターの滑稽な思考プロセスを、別世界で観察している別の自分がいるような感覚ともいえるでしょうか。


 ここまで、見事に現代人の自意識を解像度高く分析されちゃうと、かえって気持ちがいいんですね。そんな不思議な読後感が味わえる一冊です。


BOOK

『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』
麻布競馬場著
集英社 ¥1,540

デジタルプラットフォームで生まれた文学の歴史の中に「港区文学」と呼ばれるジャンルを打ち立てた作品。一編のみ書き下ろしで、初出は全てTwitter。麻布競馬場は1991年生まれ、慶應大卒というプロフィール以外明かさない覆面作家。優れたマーケッターのような洞察力を持った筆致で現代人の自己愛、コンプレックスを解像度高く表現。ちなみに目黒には競馬場があったけど、麻布にはなかった。


嶋 浩一郎

1968年生まれ。博報堂ケトル代表取締役社長・共同CEO、編集者。本屋B&Bの運営にもかかわる。著書に『なぜ本屋に行くとアイデアが生まれるのか』『アイデアはあさっての方向からやってくる』など。


Photo:Kenta Sato

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